人工肉、培養肉 の感動的な話

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人工肉・培養肉への願い

 
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最近TVで知った人工肉の話は感動的であった。

現在人は肉食の傾向が高く、地球上のあらゆるところで肉を加工したり、焼いたり煮たりして食すことは圧倒的に多い。これはわたくしたちの周りの牛、豚、鶏からしてみると悲劇である。

最も、見方を変えると、疫病や、食料等一切考えることなく与えられて生活できるのであるから、結構な身分であろうという理論である。それは本来の彼らの精神的な楽しみは全く考慮しない人間本位の考え方である。

ずっと昔牛、豚、鶏が抹殺されようとするとき、彼らは痛みを感じないと聞いたことがあったが、それは嘘である。人間と同じくらいに彼らは、今まさに自分に投げられようとする刃を敏感に感じ取っている。

実は最近小鳥を飼った。小鳥なら簡単に飼えそうに思ったことがきっかけだが、最初は小さな箱に入れて連れてこられたせいか、緊張し人見知りを繰り返して、頑固この上なかったが、少しづつであるが、打ち解けてきて、朝目覚めると同時に、「チッ、チッ、チッ」と鳴く。ある時はおなかが減ったよ。エサがないよ」と言っているようにさえ聞こえてくる。

「時々放鳥してください。」と小鳥屋さんに言われたので、一日2.3度放鳥して上げると、最初こそ、ここはどこ?何があるのか?といった感じでいたものが、最近では楽しそうに部屋の中を飛び回る。来客等があって、外に飛び出ても困るので、小屋に入れようとすると、気配を感じ取って逃げ回る。顔の表情は毛におおわれているため、ほとんどわからないが、タオルをもって追いかけると素早い反応を見せて、私は疲れて追いかけることができない。高いところに止まって平然と「どうだ、とどかないだろう」などと言っているように思えたりする。

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掌にのる小鳥でさえこのような感覚は持っているのだ。牛、豚の類がわからないはずはないだろう。一説によると、豚はたいへん知能の高い動物であるようだ。狭い折に入れられて、親子愛、こども通しの戯れや野原を追いかけ遊びまわる自由や楽しみなど、まったくなく、人間に都合よいだけの生き方を強いられている。いつかこのことのしっぺがえしをされる日が来ないとは言いきれない。

食用の人工肉のことである。人工肉と培養肉があるらしい。人工肉は植物から作られ、培養肉は牛や豚から採取した細胞を工場などで培養して作られるうえ、味は実際の肉より上等だという話である。一日も早く市場に回り、物言わぬ動物の開放を心より願う一人である。

人間だけが地球上で唯一、飛び透けた存在であるといわんげな現在の食物システムが、私も食べないとは言わないが、どうしてもスムーズに心理的に移入できない人もいるのではないだろうか。

一日も早く地球上の食糧システムが変わり、牛、豚、鶏に幸福な日が訪れますようにと願いたくなる報道であった。

 

ないものねだり、人と比較する

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無いものねだり 人と比較する

 
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人と比べることがすべての嫉妬ややっかみの原因の始まりのような気がします。だって人と自分は違う人間だもの、同じはずはないのです。

顔かたちだって、背丈だって、それぞれの得意分野だって違うから面白くなっているのに、同じようになりたいといっても無理です。まったく同じような双生児兄弟だって性格や、なりたいものや好きなものは別です。

だから同じ環境で育ったら同じかといえばそれでも違ってくるのです。ライバル意識や、好敵手というと聞こえはいいですが、それでも純粋に良きライバルなどというものは現在のストレス社会では、なかなか見当たらなくなっているような気がします。

 

そしてそのやっかみ嫉妬の類は、結末が恐ろしいことが多いように思います。自分自身ではコントロールしているようで、できていないことが多いからです。はたから見ると鬼の形相をしていることに自分が気付かないのです。挙句、周囲を巻き込みあらんことを口叫び、結局は自分に跳ね返ってくるだけです。

比較するとき、どんな心理的な状況下かといえばおそらく、現状に満足していない心理状態を抱いていることが多いのでしょうが、そのことにも本人は気づかないことが多いようです。

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少し考えてみると、通常は自分の大切な部分を刺激されると弱いような気がします。私自信の境遇を比較してみると、長い間パートナーがいないこと、パートナーのいる状況が素晴らしいと思っていると、卑屈になります。とんでもないパートナーがいて、苦労づくめの人を見るとホッとして自分と同じ境遇なんだと安心します。

結婚したカップルのうち、今では30%は離婚している現状を見ると、そこまでゆくのにどれだけ苦労があったか、想像できます。子供がいればなおさらです。我慢しているカップルはもっと多かろうと思います。上手に折り合いをつけ有意義に生活できているカップルはいかに少ないかということです。

古いた建物に住んでいると、新築のマンションや一戸建てに住んでいる人は羨ましいです。古いから家賃が安いんだといわれても、お金さえあれば新築に住めるとなり、親から遺産をもらったりできる人をうらやみます。しかし、プールがあっても幸せとは限らないのです。

この、人と比較するという心理状況は誰でもなるかというと、そうでもないようで、基本的には自分は自分、人は人といったスタンスを抱けるようになることで克服できるようです。

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ということは、自分にとって、これだけは!!といった自信を持つことであるかと思います。仕事でも、趣味でも何でもいいですが、生活の中に自信を持つことに限るのではないでしょうか。趣味はあるけど、という人もいると思いますが、それでは言い方を変えると、やはり教養を重ねて自己研鑽を積み、人間が大きくなるしかないようです。

書物を書いているような人は大方勉学にいそしみ、結構な教養を身に着けておられることが多いような気がしますが、スポーツに長年いそしみ、経験を積むことで、自分の限界が広がり徐々に人間が成長を続け、至福といった感情に代わってゆく人は結構おおいような気がします。

そういった立派な方々だけでなく切手の収集や、音楽や器楽に精魂傾けたような人なども素晴らしい自信を身に着けていることでしょう。そのようなよき他人の経験や、感性に寄り添うことといえばどうでしょうか、心身が洗われる感動などする機会はあるかと思います。

結局自分のきいたり見たりすることの限界を打破し、違った目で外の景色をのぞいてみる、経験してみる、といった作業を積み重ねた末には、人と比較したり、うらやんだり、嫉妬するといった後ろ向きの姿勢はだんだん減ってくるのではないでしょうか。私は、俺はこれを誇りにするというものがあると、人間自身の味が変わってきます。

自分は何とも思っていなくても、自己研鑽の中に自分が気付かない新しい自分を生み出し、生きやすい人生が待っていてくれると信じたい、と思うこの頃です。

パーソナリティⅡ 個性的な人々

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(パーソナリティⅡ)個性的な人たち

 
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パーソナリティのことを想う時、もう一人おもいだす男性がいた。

大変な合格率8%とかいう国家試験を合格し、部下を4人ほど率いて日々勢力的に頑張りを続けていた。私と通路を挟んでとなりあわせの座席に座っていたせいか、話していることもすべて聞こえてくる。

元から私的には彼が素晴らしい素質を持っていること、再婚とはいえ奥さんとの間を大切にしていて、二人目のお子さんがまもなく誕生する円満な家庭を築いていることを聞いていた。

しかし、その人が私から今以上の称賛を期待しているとは思わず、仕事面の評価をさほど大げさにすることはしなかった。つまり、結構あちこちで聞きなれた評価をしていた。するとそれが不満のようで私に対する態度が豹変した。

もっと大げさに彼の評価をしていたらきっと喜んでくれたのかもしれない。

なんだかんだと私を見下げた話題を投げ掛けて来るし、果ては自分の出自の素晴らしさや仕事上の権力の優位さを事細かく大げさに周囲に聞こえるがごとく、話すことが目立って行った。

何となく癖のある性格かな?

そのように思うようになった。

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自己愛性人格パーソナリティ??

 

賞賛以外はいらない。自分は優れていて特別な存在であるという態度があらわに見て取れる。自分の取り巻きは自分を特別扱いするための取り巻きに過ぎないとでも思っているようだ。俺のことをほめないとは何事か。といった態度があらわであった。その態度が露骨である事に対しても反省とか、言いすぎだったとかの後悔もあらわさない。

なんだか子供みたいだな・・・

取り立てて大仰に賞賛しなかっただけだ。だって、これまでの生活の中で同じような人が数人いる。しかし、自分の感情が傷つけられたと思ったのか、何かにつけケチをつけるし、当面している現場を目にしたりすると、そのあと、烈火のことく憤慨して耳を貸さない。そのことが周囲にいかに迷惑をかけているかなどといったことにはまったく無頓着な様子である。

聞いてはいないが、私のように当人からそのような特別扱いされた人間が部下や同僚にもいたようで、私との間に入ったりして距離をとってくれた人さえいた。そこことは、その人物が当然問題となるパーソナリティの素質をもっていただろうということは否定できない。

心理学との出会い(境界性パ-ソナリティを抱えた女性)

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パーソナリティ

 
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この数年、心理学に関心を抱くようになった。

きっかけはある精神科医の小説だった。拘置所において死刑囚の監察医としての勤務する中で過ごす精神科医と死刑囚との日常生活を描いているが、刻々と死刑の宣告を待つ死刑囚たちと過ごす日常は、簡単に言葉に表せないものがあることだろう。

 

さらに、この小説に出会った当時、勤めていた職場のあちこちに、それまで経験したことのないような個性的な人々がちらほらと目立って気になってきた。小説によって認識が広がったのかもしれない。

そして、そういう人に出会うたびに決まってその人たちのターゲットが自分であるような気がしていた。その理由はよくわからなかったが、最初は単なる偶然、運が悪いのだと思っていた。

そして、様々な書物をめくるうちにパーソナリティが原因となる性格の特徴がいろいろとある事を知るようになった。

しかし当時はまだ、他人にこんなことがあった、こんな人に出会ったなど笑いながら話せる段階であった。

自分がターゲットだと思うようなったのは、認識が広がって、自分がそのような角度で他人を見る傾向を持つようになったからだと思う。むろん自分自身の内面への傾向にも関心を持つようになっていった。

 

例えば境界性パーソナリティの女性に出会ったことがある。彼女は仕事ができて、上司からも大変重宝がられる人物だった。にもかかわらずある日突然おお声でわめきだしたのだ。「何でこんなことするのよ。違うでしょ!」

周囲の人間はその勢いに押されて、また意外性に驚いてほとんどの人が黙ってしまった。または顔をそむけたり、下を向いてしまった。彼女は私へ依頼した仕事が頼んだことと違うと言って大声を出しているのだ。

数日前パートとして配属されたわたしは、彼女の仕事を受け持った。快く説明してくれて、快諾した。ところが出会った数日後に何となく、私を避けようとする彼女を感じていた。まぶしそうに私を見る、または見るのをさけようとするのを感じていた。

その数時間後に大声でキレたのだ。原因は私?

そう思った。彼女と仲のよさそうな周囲の仲間も私が何ごとかを仕掛けたと思ったようだ。彼女の異変は私が仕掛けた・・・?!

職場の上司もそう思ったようだ。一日のうちで数回そんな繰り返しだった。なんだかんだ一週間ほどそんなことが繰り返されると周囲は彼女を伴って、医療機関を訪れたようだ。そこで伝えられたことは境界性パーソナリティというものだった・・・そうきいた。

私は懸命に精神科医の解説書をめくるようになる。

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境界性パーソナリティ (以下 岡田尊司氏より抜粋)
喪失体験や見捨てられ体験、あるいはそれを想起させるような出来事にでくわすたびに、不機嫌になったり、不安定になったりの変動が激しい。短時間に別人のように状態や方向性が変わってしまう。自殺企図は言うまでもなく自傷行為や過食、危険な性交渉、薬物乱用などにエスカレートすることもある。
もともとある「性格」の障害ではなく、あるきっかけから、「困った性格状態」を発症する障害の一つである。この障害となる人にも、様々な性格の持ち主がいて、単一の障害ではなく、共通した状態を呈する「症候群」であり、背景にある原因も単一ではない。
境界性パーソナリティが発症するとき、通常きっかけとなる出来事がある。それは一つのこともあれば、複数に絡んだことであったり、間隔をあけて起きている場合もある。しかし注意しなければならないことは、きっかけと原因は別だと言いう事である。
原因はすでに長い時間をかけて用意されている。
一方きっかけは、たまたま最後の一押しとなったに過ぎない。ただし、きっかけとなった出来事が原因と無関係なわけではない。きっかけとなる出来事は、かつての心の傷や痛みをよみがえらせるような性質を備えているといえる。
見捨てられ不安が強い。対人関係が両極端で不安定。目まぐるしく気分が変わる。怒り、感情のブレーキが利かない。自殺企図や自傷行為を繰り返す・・・
発症時期にはかなり個人差があり、低年齢時期に発症するほど深刻であるらしい。そしてそのほうが家庭環境の影響が大きいと言われている。大方は数年で嵐は収まり改善してゆく。本人が自分の問題を克服し、その後どのように生き方をしてゆくかの中において魅力的に成熟した人間ともなるし、できない時は偏りや幼さをとどめることもある。後半生にその人らしい人生が現れる。

 

職場内では、私を犯罪者の如く見ていたようだ。結果的には、どうやらそんな疑いは晴れて何とか開放される日は近づいた。

西部元教授の入水自殺に思う・・・ 生きること.死ぬこと

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西部元教授の入水自殺に思う・・

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死という言葉について考えると、この言葉は誰が話したかでいろいろ解釈が変わってくる気がする。

若いいころとか、学んでいる学生などにはおよそ、似つかわしくない話題だし、まだまだありえない将来のことと思っている。

しかし、そこそこ大きな病院などに訪れると、小児科という別の病棟があって、乳児から小児・幼児といわれる年齢の子供たちが、難病と闘っている姿に出会うことがある。小児がんなどだったりするとすると、「なぜ?」そんな思いを味わう。何の罪があるのだろうとか、聞いたらいけないことを知ったような気がして、つらくなる。

そこにいる数人の小児の中には、最後まで病院を生きて出られない子供たちも存在するのだ。

人生長いことだけが幸せではない、かもしれない。しかし、夢を持って生きているとき、将来が見えないことはやっぱり不幸だ。21世紀後半には火星に行ける日が来るかもしれない。もしかしたら映画のように冥王星に行く人もいるかもしれない。そんな時代を見つめられないことは残念だ。

自分のことを言えば、子育て中は死を考えることがしばしばあった。今は死ねないと思った。少なくても子供が大学を出るまでは生きねばならぬと思った。人生長生きするようになったため、心臓病やら、がんという病を持つ人がふえて、今では3人に一人はがんだという。しかし21世紀の現在は、医学が進み、早期発見さえすれば、30年前とは違ってがんは恐ろしい病ではなくなったようだ。

子育てをしているころはあと〇年は生きなければ・・・そういった緊張感を常に持っていた。地域の健診センターに2年に一度は通い、親の代からの家族病である胃がん健診を受けたものだ。健診センターの医師によると、2年あれば、早期発見の可能性が高いと聞かされていた。乳がんを疑われたこともあって有名大学病院の専門病棟で、検査を受けた。

ようやく大学卒業が射程圏内に入ってきたころ、健診センターに行くのはやめた。もう大丈夫だ、何となくそう思った。

そこそこ人生を乗り越えて、子供も成長して、定年退職したような年になると、生きることはまた違う意味を持ってくる。生活も、頑張ってきたんだから少しくらい人生を楽しんでもよかろう・・・などとおもうようになる。

具体的に致命的な欠陥を持っていればともかく、そうでなければ、まあ、まだまだ人生を楽しもうなどと思うのだろう。むろん健康な体を持ってさえいればこその話ではある。

ベッドに寝たきりであるとか、管を体中に巡らせて生きていても、人生は楽しめない。

人間は願って生まれてくる人はいない。死ぬときは自分で選べない。あと少し時間があればと願うこともあるのだろうが、自分の意志で選択できる人は現在の医学では存在しない、自由に叶えられることではない。

世の中で認められ満足した人生を送った人は、自由にできない体を持て余したとき、どのように考えるものだろうか。西部元教授は東大教授となり、政治経済等の幅広い分野で認められ、TVで論客ともてはやされて、はたから見ると成功した羨ましいような人生を過ごしてきたように見える。80歳近くになっても頭脳は明快で、説得力のある語り口はわかりやすくて、聞く人を飽きさせることがない。

78歳で多摩川で入水自殺を敢行した。いくらか体力的には衰えていたようだが、教授の影響を受ける人々から見たら、まだまだ日本の中に君臨していてほしい存在であり、惜しむ声は引きを切らない。周囲のそんな声よりも、自分自身を振り返るとき、どこに限界を感じたのだろうか。

ホーキンス博士と比較するのもおこがましいが、ALSを患いながら、死ぬまで宇宙物理学を研究し続けた生き方は尊敬に値する、どころか完全に脱帽だ。ALS診断を受けたのは21歳の時で余命2年と宣告されたのだ。

車いすでないと身動き一つできないホーキンス博士に比較すれば、いくらか不自由とはいえ自分の身で、行動の選択のできる西部元教授には、別の事情があったのだろうか。

人の生き方は自分がその立場になってみないと理解できないのは百も承知とはいえ、TV画面で自分の意見をいかんなく発揮できる能力を持っていた元教授の自殺の本当の原因とは何だったのか、疑問符がなくならない。常々他国から押し付けられた憲法を抱いている日本国に不満があることは知っていた。それが一因であったのだろうか。私は教授のファンだった。

欧米には尊厳死安楽死などという言葉は存在し、意思を示す人もいるし、積極的に議論されている。法律が作られている国もある。日本にはまだないし、そんな言葉を簡単に言ったら拘束されてしまいそうだ。

しかし、食欲のない老人に、食べないと倒れるから食べろ、心臓が動いている限り生きろという原則はそろそろ見直しても、よくないだろうか。少なくとも生き方という根本問題について討論してもよい時代ではないのかと思う。日本の昔話で姥捨て山という物語が存在するが、過去の人間のほうが人間の真実をとらえていたということだろう

今どきの美容皮膚科 事情?

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美容皮膚科に行ってみた

 
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最寄りの駅近くに美容皮膚科であろう医療施設がここのところまとまって林立している。

もちろん普通の皮膚科も併設している。

このところ人気のあるらしい美容皮膚科、美容外科に足を運んでみることにした。「マリオネットラインが気になるのです」と言って担当者からおすすめされたのは、トータル15万ほどのヒアルロン酸注入だった。

私の担当者は自分もリフトアップのために頬にリフトという糸を入れ込んでいるといった。まだ30代であるが予防のためだとのことだった。およその金額は2.3年に1回30万ほどかかると言っていた。

予算をかんがえてて覗ったわけではなかったので、おそれを抱いてしまった。私の使える金額は5万円ほどの予定だ。とりあえず保留した。

今の私に簡単に使える金額ではない…

気にしている部分のために私には高価な美容クリームをネットで購入した。金額は高級で有名どころの化粧品会社から売り出している19.000円の目元クリームだ。このクリームは普段なら手が出ないところだが、今回はとてもお手頃な気がしてしまった。

また、セカンドオピニオンのつもりで、別の美容皮膚科へ伺った。無料のカウンセリングがあると聞いたのだ。以前の皮膚科に比べると価格的には良心的だ。ところが予約がものすごい。診療ののち、「おすすめの施術は4週間後になります」と言われて待っているところだ。予約をしている間に、訪れる人の多いこと、予約が4週間後であるだけに当然かもしれないが、訪れる年齢が若いことに一層驚いた。

かつて美容外科といえば私の知る限り中年以降になり、頬肉のアップなどのため通うところだったはず。今や、美容皮膚科はだれにとっても身近な選択肢となっているのだ。顔を隠す様子など見えない。当然の通常の美容の一部だとでも言いたそうだ。男性もいる、男性は脱毛だろうか。

しかし、保険治療が効かないため自由診療となっているが、金額は多くは数十万を超す。みなは負担ではないのだろうか。

綺麗になりたい。若さを保ちたい。どれもこれも充分気持ちはわかるが、無い袖は振れないのも事実だ

マイナンバーカードなんていらない?

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マイナンバーカードって?

 
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巷でときどき聞こえてくるマイナンバーカードなんかいらないよね。財産が全部知られるなんかドンでもないなど・・・

ピンとこない話が聞こえてくる。

総務省自治体の説明が悪いのか、一部の否定的な人の話がさも全体のイメージを壊しているのか、まるでとんでもない悪法であるかに聞こえてくるのが不思議である。土台マイナンバーについての説明が不十分なのだろう。

わたしの知る限りにおいてでしか言えないが、マイナンバーは過去の蓄えた財産にまで税金をかけるとかいうものではない。

少なくとも税というものは資産が移動したときに発生することは周知のとおりである。(固定資産税、償却資産税とかあるが)

ほとんどの人は金融機関を利用していると思うが、これは預貯金の利息を期待しているのではないだろう。今や預貯金の利息はそれこそ雀の涙ほどでしかない。利便性を確保するために利用している人がほどんどだろう。預貯金を預けている金融機関も一つだけという人は少ないだろう。

最終的には国や自治体で、前年分の所得に対する税額を決定後、追徴したり、還付したりすることが簡単にできるようにするためのものである。所得税でいえば、前年の所得税の申告時(例えば3/15日)に還付が発生した場合、還付先はどこかと聞かれて答えると、それが全財産を知られるので困るという人が居るのだろうか?

住民税が決定し、国民健康保険料も決まることになる。その時、納付する口座は知られたくないというのだろうか。では金融機関の窓口に納付書をもって毎月出向いたらよいだろう。

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すべて国や自治体での作業、手間を簡略して公務員の数も減らそうという事だと私は思っている。

少なくとも過去の蓄えた財産がいくらあろうと、別の口座に定期預金にしておけば第三者に知られることはない。それでも不安ならタンス預金にして、枕にして寝て居たらよかろう。たわしから見ると勘違いがはなはだしいと思う。

この度のマイナポイントはその操作に簡略化をスムーズにしようとする涙ぐましい努力だと思っている。むろん消費税増税に対する消費減額ににブレーキをかけようとする意図もあるかに思えるが、このマイナンバーカードに対する抵抗は、ある程度財産を持っているものほど大きいように思う。

自分の財産が知られることがよっぽど心配なのだろう。この保守的な態度が、この度の生活補助金10万の振込を困難にしていた。補助金がいらないならそれでいい、自治体に出向いて補助金はいらないからマイナンバーカードもつくらない、と言えばよいではないか。金持ちは補助金などあてにしていないだろう。補助金は欲しいがマイナンバーはないほうがいいでは、自治体の手間をさらに困難にしているに等しい。

かつて銀行口座を作るとき印鑑が必要だったが(今も必要なところもある様だが)、その印鑑に相当すると思う。印鑑を作ったら、即自分の財産が全部知られると思う人は多くない。なのにそこから先に思考が進まないことが疑問でならないのだ。

今や日本はIT後進国なのは、そうした金持ち世帯の保守的な思考が原因なのだと私は思っている。財産のないものはそれに伴う不安は少ない。

新型コロナが中国で発症したとしても、それでも感染者8万という比較的少数なのも、共産党一で強圧政権が強圧的に推し進めたとはいえITが進んでいるからこれだけの数で済んでいる。韓国の文政権が大勝したのも、韓国政府によるIT の管理体制が完璧にできていたからだろ思う。

日本の何でも国民に要請する弱腰の体制は必ずしも褒められたものではないように思う。緊急事態にはそれに伴う強い政治の判断と手動が必要なのではなかろうか。補助金さえなかなか手元に届かない現象には、国民の理解のない姿勢に対してイライラを通り越して失望さえしてしまうのは私だけだろうか。